浦上玉 堂の「画業」に興味を持つ者ならば、だれしも彼の「琴」に対してもまた少なからず興味を 抱くに違いない。この二つのもの、すなわち「画」、「琴」に「詩」、「書」を加えた 四つの要素を玉堂の「主業」とするには、現時、異論のないところであろうが、その最も 重きをなした「琴」は 普遍的でないこと、また時間芸術、再現芸術ゆえにか、その「画業」に比して紹介されにくい。事実「琴士」と自号し、当時「琴客」として喧伝されていた玉堂は、自身、その文人的内外面 においても「琴」を第一等のものとしたのは周知のことであるが、ではその「琴」について具体的に問われてみると、漠とした概念のみで、あまりにも知識がないのに気づく。
 脱藩し、「武士」を捨ててまで「文人」、否「琴士」として生きようとした玉堂における「琴」とは はたしていか なるものであったろうか。

 以下簡単にその「琴と玉堂」周辺を紹介してみよう。

● 琴とは
 「琴」は「きん」と読み、七絃十三徽(き・目印)ゆえに「七絃琴」とも俗称されるもので、総体に漆が塗ってある。本邦では法隆寺旧蔵の俗に「開元琴」と呼ばれるもの(国宝)と、正倉院御物の 俗に「金銀平文琴」と呼ばれる「琴」が有名である。(開元琴は、東京国立博物館法隆寺館に収められ ているし、金銀平文琴は、正倉院展で数年に1度展観されるので、実物を鑑賞する機会はままある。
 ここで注意していただきたいのは「琴」と「箏」(通常「こと」と呼ばれる十三絃有柱のもの)を混同なさらぬよう にということである。「琴」も「箏」も「こと」と和訓されるので混同されがちである。はなはだしきは「琴曲」も< 「箏曲」も区別がないが、元来古語で「こと」とは「絃楽器」一般 を指し、古人は「きんのこと」「そうのこと」「び わのこと」などと正確に区別していた。
 「琴」はもともと中国の楽器で、その真偽は定かではないが、紀元は遠く伏羲(ふっき)神農氏伝説 の時代にまでさかのぼる。周代には確実に存在し、孔子も「琴」を愛奏(『孔子家語』)、これに心を 託したので、以下歴代の諸聖賢もこれに倣って「琴」を学ぶようになったといわれ、以後、「君子」「士大夫」(したいふ)、「読書人」(とくしょにん)とかいわれる人々に必修の「器」とされ、 文人 的な修養(六芸、琴棋書画など)に欠かせぬものとなった。 「箏」とか「琵琶」の異域からの伝播と違い、「琴」は中国伝来のものであることから「中華の粋」とも「中華の音」 ともいわれ、前述の「儒的」な要素とこの「中華思想」さらにはこれ「仏」、「道」 も加味され、数千年を経て唐、宋 と維持され、明代に至って「古譜」、「指法」「美学」など整理され「琴学」として確立された。
 本邦へは、奈良朝に伝来し、平安期まで行われたが、しだいに廃れ、江戸期に至って明末の高僧東皐心越(とうこう しんえつ)禅師(1639〜1699)により齎伝(さいでん)され流行、特に元禄以降文人趣味の勃興とともに、多 くの人々がこれを学んだ。わが玉堂もこの「琴」を学び、「倣」(中国の「琴」に倣って木をり、「琴」を製作。正宗文庫蔵、筆者修復)し「琴曲を模作」しのちにはほとん ど「分身」のように「琴」を「酷愛」したのである。
 では、何故にそれほど玉堂が「琴」に執着したかは、この限られた紙幅では述べるべくもないが、いわゆる「文人 画」で借り用いるところのイメージ、「胸中原自有丘壑」(黄庭堅)、「胸中有成竹」(蘇軾そしょく)の自由かつ孤< 高の精神性が、「琴と玉堂」とを結ぶ重要なヒントになるであろう。すなわち、筆を持ち「白紙」に向かう玉堂と、「素琴」に対して端座する玉堂とは、少なくとも筆者の 脳裏では完全に重なりあい一致するのである。玉堂の水墨中に躍動する筆致を見た者は、そこにまた「琴」の「指法」と「琴韻」とを、漠然ながらも感得することであろう。                      「詩中有画、・・・画中有詩」(『東坡志林』)

●琴士・玉堂
 さて、玉堂の琴歴を見てみると、岡山の支藩・鴨方藩出仕のころ、古楽に興味を覚え、安永8年(1779)35歳の折、「霊和」銘「玉堂清韻」朱文印のある、「明琴」を入手、以後飛躍 的にその「琴興」は増し、 みずからも「玉堂」と号するようになった。玉堂は、これ以前に人に「琴」を手ほどきした(『玉 堂琴記』)こともあるようだが、この ころの 師伝については、現在のところ不明である。しかし、何らかのきっかけで「琴」に志し たことは明らかで若書きの『幽蘭譜』など自筆写本を見ると非常に興味深いものがある。程度 はさておき、すでにこれを「琴狂」、「琴痴」の兆しの一端と見ることができよう。 当然、玉堂の「文人芸」は一朝一夕にしてなったものではない。彼の「水墨」にしても、明、 清の絵画を数多く模写したうえで、あの独自の筆法を自得したことであろうし、「琴」にして も、仮に正伝を承けな いまでも多くの「琴書」を読破(『玉堂雑記』)して、「琴法」、「琴 趣」を会得(以譜為師)したであ ろうことは、想像に難くない。資質に満ちみちた玉堂も、前 向きな文人的修養は決して疎かにしなかったはずである。であればこそ、のち、江戸出府の折 に、知人井上金峨(いのうえきんが1732〜1784)の紹介で 多紀藍渓(たきらんけい1731〜 1801)に就いて主流「心越派」の「琴」を正式に学ぶわけだが残念なことに長続きはせず 数曲にして辞してしまった。
  「浦上兵右衛門玉堂琴を得て法印に就て調弦及び南薫操なと受くといふ然共僅に二三曲にして 未熟と見へ今 玉堂か鼓するを見れは指法節奏いささかも似す惟譜字を解する事を得たる故 自ら我邦の歌を此器に合せ弾くことにしたり」(原文のまま)
                        (新楽閑叟にいらかんそう著『絲桐談しとうだん』)

 多紀藍渓、名は元徳、字は仲明、藍渓はその号である。幼名・金之助、長じて安長、のちに安元と改めた。 当時「躋寿館」(医学校)第2代の長で将軍お目見え格。「琴」を小野田東川(とうせん 1684〜1763) 門で少年のころより学び、のちに門下四天王に挙げられた名家でその東川門数百人の なかでも能手と評判 された人である。東川の没するに際して、心越禅師伝来の「琴」一面「鶴衣」(かくしょうえ)、越師と人見竹洞(1628〜1696)二師の「肖像」さらに「琴案」を遺(おく)られた。(藍渓の甥の養父・桂川月池-甫周も藍渓琴門)明和から寛政期にかけては、江戸時代を通じて最も「琴学」が隆盛を見たころである。児玉空々 (こだまくうくう1734〜1811)、篠本竹堂(1743〜1809金峨儒門)、ほか枚挙に暇がないほど 琴家が輩出した時期であって、志があれば、師には不足せず、結社にも加われたはずであるが、 にもかかわ らず、玉堂は多紀藍渓以外には就かなかった。「心越派」から酷評されたことなどは 瑣末なことで、大器、玉堂の「琴道」はすでに確固としていたのである。その「水墨」に代弁される ように、文人の内包する「清澄」、「孤高」さは、とりわけ、彼の「琴」によってこそ「具現化」さ れたのであり、本邦の「古楽」「催馬楽」(さいばら)に借りて、この「琴」にのせて「心」を託そうとしたのが『玉 堂琴譜』(寛政3年刊)であり、いうならば「玉堂流」なのである。そうして 寛政6年(1794)50歳にして脱藩して以降は、ことの ほか、自らの「琴趣」を大切に、玉堂は愛琴 「霊和」とともに独自の道をひたすら歩みつづけたのである。



 ただ、「琴」そのものの扱いにおいては、玉堂も伝統的な「琴学」の範疇を出ずにこれを尊重したので、玉堂存命中にあっても彼の「画」「書」を直接鑑賞した者に比べ、「弾琴」に接しえたのは 限られた 人士であったろう(『竹田荘師友画録』)。これは「琴」を楽器というより、修身理性のた めの「聖器」とした琴学上の規約(『琴経』、五不弾、十戒など)からでもっぱら「知音」「知己」と許しあった者のみの間で「琴」を通じて語りあうのである。 「書斎」で読書に倦んでは「撫琴」し、「静坐」同様、「琴」に心を委ねて、自己を見つめまた同志 で、「結社」して研鑽しあったなどのほかは、「琴」は概 して閉ざされた「器」であったからである。

● 玉堂の曲



 『玉堂琴譜』から一曲だけ紹介してみよう。それは番組で使用した曲「人」「」は「左」の俗字。題名は「びとぞ」と読むのが正しいのだが、通常歌詞の出だしを採って、「ひとは」で通じる曲である。歌詞は蕃山了介(ばんざんりょうかい1619〜1691俗に熊沢蕃山)のもので、 曲はおなじみの「越天楽」(えてんらく)(今様)を玉堂流に「琴」に移してある。玉堂琴譜の奇数 行で漢字表記のものが歌詞偶数行が「琴譜」である。「琴譜」は漢字の字画を減じた ものを必要に応じて再度組み合わせ使用するので「減字譜」ともいう。
説明の余白はないが「古指法」、「近世手法」とを問わず、左右合わせてざっと百種ほどの「手勢」がある。
『玉堂琴譜』後刷り一本の見返しにいわく、
「近き頃備の熊沢老人越天楽の歌を作りて婦女子の戒めとせり、嗚呼美哉(ああよいかな)、今先生(玉堂)も亦老人の意によりてみん」と。
蛇足であるが、『吉川英治短編集』(昭和28年)「玉堂琴士」にもこの曲を引用、効果 を高めている。

人はとがむととがめじ
 人はいかるといからじ
  いかりとよくをすててこそ
   つねにこころはたのしめ


(さかた・しんいち 琴士・作曲・編曲家)
                          <NHK 国宝への旅 第18巻 (NHK放送出版協会・編)より引用>

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